昭和44年3月16日 夜の御理解       (末永信太郎)    №44-041




 いつもが、神様の特別のご守護の中に私達がある、と。そういう実感が出けるようになった時が、信心が、まあ、言うなら一人前だと思います。ね。神様のご守護を受けてない者はありません。ね。けれども、私は特別な神様のご守護を受けておるんだ、と。そういう思い、そういう実感が頂けるようになった時に、いわゆる、本当の信心者としての値打ちがあると思うですね。
 例えば、合楽の場合なんかは、特別、とりわけ神様がご守護下さってあるんだな、と。どういう中にあっても、それは最高のおかげにして下さる。今日の総会なんかでも、もう、一日が、もう本当に充実した総会という実感でした。それは、言うならば、他所のふんどしで相撲とるようなことでございましたね。久留米での信徒集会。ね。
 普通なら、とても信徒集会なんかに出れるはずはないけれども、こっちが、まあ、言うならば、(片方?)になっておかげを頂いておりゃ、そのこと、集会事態が、もう、総会の内容のようになってしまったんですから。もう、合楽のために講師を呼んで、あれだけのお金をかけて、大掛かりなことがあったと言うても、過言じゃないと私どもは実感しました。
 そういう時に、特別に合楽は神様のご守護を受けておるなということを感じるんですね。同時に、私はいつも思いますことですけれども、くしわらに参りますと必ず、もとの中島の秋山さんですね、畳屋さん。いわゆる、くしわらのすぐ近所で、まあ、大変繁盛のおかげを頂いております。で、私が来たちゅうことが分かると、もう、必ずその、おごちそうしてから、お昼は家に来て下さいち言うて、呼びに来るんですよ。
 昨日も、やっぱ呼びに来てくれましてね。そしてやっぱり、ちょうど十人参りましたら、十人分ちょうどおごちそう作って、お昼はあそこで呼ばれたんですけれども。それがもう、久留米に行くと、いつもそうです。私が行くと分かれば、ちゃんとしてくれる。それも、もう、気持ちよくてですね、もう本当に、それこそ、ここには参って来んけれども、もう、ずうっと参って来よるモンのごたる感じでおかげを頂いて。
 もう、今あちら、私が歯医者に参りますから、もう、あちらの嫁御がずっと歯医者に行きよったから、その番号取ってくれよったんでけども、もう、行かんごとなったけん、今、妹さんが毎日行ってくれよる。ほれで今日も、もう、本当に私は朝参りしたことなかばってん、朝参りさせて頂こうと思うてから、毎朝行きよりますち言うてから、その、妹が言いよりましたがね、秋山さん。
 そんな風に、もう、本当にどこに行っても、特別のご守護を受けてるなあ、と。小倉に参りますと、富永さんがちゃんと待っておってくれますしね。福岡へ行きますと、もう、これは絶対、あらとの教会の大祭ななんかに参りますと、松岡さんが、行かんと腹かくごとして喧しい申しますでしょう。もう、福岡に行きゃあ福岡にある、久留米に行きゃ久留米に、小倉に行きゃあ小倉にというようにですね、これはもう、どこに行っても、そういう実感の中におかげを頂くから、いやあ、私は特別のご守護を受けてるんだなあ、と思えれるんですよ。ね。
 合楽には特別な神様の(ご哀調?ごあいちょう)があってるんだなということを感じるんです。ですから、そういうおかげを受けなければです、ただ、神様のご守護の中にあるんだと言うだけじゃなくて、特別のご守護の中にあるんだという実感を頂かせてもらわなければね、本当の有り難いものは湧いてこないと思う。ね。その有り難いに、また有り難いおかげが伴うて来る。
 もう、今日の総会なんかを見たり聞かせてもろうたり、させてもろうてです、かえって充実した、最後のもう本当に、出るものは出尽くしたというようにお話なんかでも、出さなければならん話が出ましてね。最後の幹部会の最後までおかげを頂いたんですけれども。
 どうでも、一つみなさん、特別のご守護を受けておることを、この心にも体にも感じれるほどのおかげを頂けれる、いわば信心を頂かなきゃいけんと思うですね。どうぞ。